[書籍]身体感覚で『論語』を読み直す
安田登 著
孔子が生きた時代に存在していた文字と現在普及している漢字との乖離に注目している。例えば「惑」という漢字は孔子の時代には存在しなかった文字だ。よって現在この「惑」という漢字を使って伝えられている孔子の言葉は孔子が本来意図していたこととズレが生じているだろう。その前提で本書では本来使われていた文字に当たることによって孔子の言葉の本来の意味の可能性を探求している。
身体感覚で読み直すとはどういうことか。それは孔子が生きた時代に使われていた文字、つまり漢字の原型である象形文字の造りに注目することになる。例えば「手」とは人間の手を模した形というように漢字の原型は絵による表現だった。「鳥」や「木」のように動物や植物の形をもとに作られている文字もあればもちろん人間の身体や仕草から作られたものも多く、こと論語で使用されている文字のほとんどは身体由来の文字で書かれている。つまり孔子の時代の文字とその成り立ちに注目すると孔子が伝えようとしたことはより身体的な表現なのではないかということだ。
この孔子の時代の文字と身体感覚に注目して論語を解体してくような解説で特に面白かったのは「心」の存在だ。孔子の時代にはすでに「心」という文字はあった。しかし、まだその時点ではその文字が作られてから500年程度しか立っていなかった。人間が「心」の存在に気づき、それをどのように扱えば良いか理解するにはまだ日が浅かったのだという。(500年という時間は人間一人にとってはとても膨大な時間で、つまり十分時間あったじゃんと思えるが人類の歴史的にみると短いものらしい。)孔子の論語は「心」の扱い方を身体の使い方によって学ぶ書だ。
だからこそ孔子の時代の文字の形に注目し、どのような身体の作法で心を捉えるのかという視点で読み直してみようというのが本書の趣旨なのだ。