TOMYAM JOURNAL

世界の片隅でしたためる個人備忘録

[書籍]「デモクラシーの宿命」、「ホモ・サピエンスの15万年」

「デモクラシーの宿命」 

猪木武徳 著

 

民主国家と独裁国家とどちらの国で生きて行きたいかと言われればまあ民主主義の国だろう。それは個人の自由と権利が認められているからだ。ただそんな民主主義、デモクラシーも完璧ではない。本書はその欠陥の部分に焦点を当て、歴史を学ぶことでそれを保管することの大切さを指摘している。

 

デモクラシーとは自分たちの所属する社会の方向を代表者を立てて議論をして決めて行くことだ。多数決と言ってしまうと完全ではないが大部分を占めていると言ってもいいだろう。本書で指摘しているデモクラシーの欠陥とはその周りと同じ考えから外れることが避難の対象になることだ。それは同調圧力だ。さらにエスカレートするとポピュリズムになる。ポピュリズムとは人々の感情に訴え祝祭性を帯び、一体感を助長する。そのリズムに乗れないとノリが悪いものとして鼻つまみ者になってしまうのだ。以前、チャップリン本に書かれていたように、人々は思考よりもリズムで動いてしまう。リズムは思考を超えてしまうのだ。

思考するのは知識も忍耐力もいる。他者を理解するという寛容は我慢を強いられる。それらに耐えられず感情任せに声をあげられればそれは楽だろう。

しかし感情任せのポピュリズムのたどり着く先は自他を含めた利益の拡大の停止だ。または短期的な利益を追求するあまり、長期的には人間社会が野蛮化も懸念される。

これらを防ぐには抑制の効いた粘り強い姿勢が必要だと著者は説く。

 

デモクラシーの社会では平等化が進む。それは人々を孤立、内省的にさせ、つながりを薄めていく。さらにテクノロジーがその作用を増幅させる。分断された人々は知性や心を育むことをおろそかにする。

 

 

 

ホモ・サピエンス15万年」 

吉澤拓郎 著

 

人類生態学文化人類学のように科学の視点から人類を見ることは、差別のない理解ができるようになる。

私たちの住む人間社会は男女、肌の色、文化、などそれぞれの間にある差によって対立する。そこに分断が起こると差別という問題になる。

本書では人類はこれらの違いによって二項対立するものではなく、スペクトラム、連続体という視点で見ることで差別という意識はなくなるのではないかと説いている。

 

生物学、医学、地理学、社会学など様々な科学的視点から我々は我々はホモ・サピエンスという一種類の人種をベースに全員うっすらと繋がっている。肌の色や体格、性別の違いは個々の遺伝子の違いによって生まれた細やかな違いでしかない。

 

多様性という言葉が浸透して久しい。個々の差別をなくし、違いを認め合い受容することの大切さを表す言葉だ。先に書いたスペクトラムという視点も多様性をより意識させるための言葉だ。多様性とは社会学レベルから生物学のレベルまで見ることができる、生物の生存戦略だ。

あるグループの全員が全く同じ人間で、考え方も、病原菌への耐性も、何もかも一緒だった場合、環境が変化した際に全滅してしまうリスクがある。しかし、全員がそれぞれ個性を持ったグループならば、何人かは生き残る可能性がある。

 

そもそも、生物がオスとメスにわかれて性交することで子孫を残すこと自体が多様性だ。無性生殖により繁殖する生物がいるがそれらの子は皆母体と全く同じ遺伝子をもつクローンだ。無性生殖で繁殖した場合、環境が変化すればクローンもろとも自然淘汰されてしまうリスクがある。有性生殖の生物は性交により異なる遺伝子を受け入れることで環境変化への耐性を増やすことができるのだ。

 

では、子供を持たない人はこの多様性に貢献していないのか。著者は、それは誤解だと指摘する。

スペクトラムとは一種類の生物が示す多彩性だ。全ての人類が同じ遺伝子を持っている。世界中の誰かの子供を残せば、どれだけ姿形が違っても、あなたの生命を次世代につなぐことと同じことらしい。