TOMYAM JOURNAL

世界の片隅でしたためる個人備忘録

親鸞 青春編

親鸞(上) (講談社文庫)

五木寛之 著

 

鎌倉時代の仏僧、親鸞の幼少期から中年になり、越後へ流れるまでの話。五木寛之の作品はこれが初めてになるけど思っていたよりも読みやすい文章でした。あまり仏教に詳しくない私でも取っ付き易く、楽しめました。というのも話の本筋は仏教とはなんぞやと、親鸞がひたすら悩み、模索し続けるといったものですが要所要所に活劇の場面を盛り込むなど、読者を飽きさせない娯楽的な要素もあるからです。その場面の文章の力はさすが著名な作家さんだと感服してしまうほど、登場人物たちの躍動感が感じられ、アクションシーンが頭に浮かぶ見事なものでした。

 

親鸞は幼少期から比叡山にある寺に入り、厳しい修行に明け暮れるのですがなかなか悟りを開くことができません。一方、京の街では法然と言う比叡山出身のお坊さんの説く専修念仏が流行っていました。専修念仏とは修行などしなくても念仏を唱えるだけで皆平等に往生できると言う考えで、その簡易さが人々の間で人気を博していました。

親鸞はその専修念仏がなぜ人々に人気があるのかと調査しようと街へ通ううちに、仏への道は厳しい修行と悟りを得た人でけに開かれているのではなく、商人や、武者、女、悪人を含む全ての人に浄土への道が開かれていると説く法然の考えに自分の求める仏教の心理があるのではと考えるようになります。それは親鸞自身に放埓の血が流れており、決して聖人君子ではないと言う自覚があったからです。そして、比叡山を降り、法然房の下、専修念仏の普及に従事することになります。

 

仏教というのは、遥か昔遠い国でお釈迦様が悟りを開いたということから始まり、しかし、お釈迦様自身はその悟りとはなんだったのかを書物に残しておらず、結局その側にいた人たちが伝え聞いたものを書き残すしかなかった。それを元に後世の人たちが、お釈迦様の悟りとは、真理とはなんなのかと、ああでもないこうでもないと解釈をすることで様々な流派ができた。ということらしい。

 

本作は全3部作ということで、機会があれば全部読もうと思います。今作は法然房の専修念仏よろしく、難しいと思われあがちな仏教を少しでも理解して慣れてもらえれば良いというような位置ずけではないでしょうか。

 

親鸞(上) (講談社文庫)

親鸞(上) (講談社文庫)

 
親鸞(下) (講談社文庫)

親鸞(下) (講談社文庫)